牧師 高橋勝義 |
〔民数記14章26~45節〕
約束の地を目の前にしながら、イスラエルの民は、神から「明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け」と命じられてしまいました。神は、偵察した四十日の一日を一年と数えて、四十年間荒野で不従順の罪を償い、さらにカレブとヨシュア以外の主に逆らった大人たちはこの荒野で死ぬ、と厳しい宣告をされたのです。そして民の不安をあおった十人の偵察者たちは疫病で死にました。その翌朝、神からの厳しい宣告を聞いた民は急ぎ約束の地に入って行きますが、時すでに遅く、敵に追い散らされてしまいます。この時、民のなすべきことは、神の前に出て、正直に自分たちの罪を認め、厳しい宣告を受けたのはどこに問題があったのかを教えていただき、悔い改めることだったのです。
しかし、この姿は私たちの姿でもあります。自らの過ちを認める前に、でも…とか、誰もがやっている…とか弁解したり、様々な理由を付けて自分を正当化しようとします。
聖書に「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません(ルカ8:17)」とあるように神はすべてを御存じです。自分の非を認めることは勇気のいることですが、キリストが十字架の上で私たちの罪のために流された血潮のゆえに「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない(イザヤ43:25)」と神は語っておられます。
ですから、私たちも彼らと同じ過ちを繰り返さないために、恐れることなく「さあ、来たれ。論じ合おう。~たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。~ (イザヤ1:18)」と招いてくださる主の前に正直に出て行けるのです。
牧師 高橋勝義